令和4年9月28日 熱海市議会は、9月定例会の本会議初日が開催されました。
午前10時に開会し、まず、議長より千明寺みずほ議員の退職が報告され、会議録署名議員の指名と議席の一部変更及び指定が行われました。
今回、山田治雄市議の御逝去と市議補選がおこなわれたこと、千明寺議員の退職により、議席が変わり、私は2番の議席から今まで山田治雄議員が座られていた議席番号1に移動致しました。
続いて、議長から山田治雄議員の逝去の報告があり、齊藤市長と議会を代表し,私橋本が追悼のことばを読み上げさせていただきました。
私が壇上にて読ませていただいた追悼文は以下の通りです。
「 皆様、おはようございます。ただいまより、去る7月1日に急逝されました熱海市議会議員山田治雄氏の御霊に対し、謹んで追悼のことばを申し上げます。
山田治雄議員は、昭和50年5月市議会議員選挙で初当選され、以後連続12期 47年余りの長きにわたり市議会議員を務められましたことは、市民の信頼が厚かったことを雄弁に物語っておりました。議会にありましては、第52代副議長、第61代議長をはじめ、各常任委員会の委員長、そして議会選出の監査委員、農業委員等の多くの要職を歴任され、常に市議会において卓越した指導力を発揮し市政の発展に大きく貢献されました。そして第61代議長就任の同時期であります平成4年7月から平成5年7月には、全国温泉所在都市議会議長協議会の会長として、加盟市の地方財政の確立と温泉地の振興を図るため、入湯税導入に伴う税財源充足の方策等を関係各方面へ要望するなど積極的な活動を展開し、また、同じく全国組織の国際特別都市議会議長協議会会長に就任され、文化や国際親善に必要とされる施設の整備を促進するため関係各機関に要望し、国際観光文化都市にふさわしい良好な都市環境の形成を図るため協議会運営に尽力され、それらの功績は高く評価されたとともに、全国に熱海市の存在感を大きく高めるために貢献をされました。
昭和62年4月には市政功労賞を、平成13年4月には市政特別功労賞を受賞され、令和2年には永年勤続45年の全国市議会議長会会長表彰を受けられ、その功績がたたえられたことに対し、心より敬意を表するものであります。
本年7月まで、47年間の活動は、我が国において、最年長の市議会議員として全国からも注目を浴び、その間、議長、副議長の在職期間以外は、全ての本会議で質問は欠かすことなく登壇されていました。私は平成15年から当時7期務められていた山田議員と会派を組ませていただき、議員として市民から選ばれた貴重な時間の中、豊富な経験にもとづいた行政や議会の仕組み等、多岐にわたりご指導賜り、感謝をしても、感謝し尽くせないほどであります。
思い出すのは、山田議員から昭和9年、熱海尋常小学校に入学した子どもの頃の話しや、昭和19年17歳で三重海軍航空隊奈良分遣隊に入隊され、翌20年18歳で震洋特別攻撃隊要員に抜擢された時の話、また土浦海軍航空隊で猛爆撃を受けた事や、昭和20年8月15日の終戦で特攻訓練は中止となり、終戦後、熱海に戻られた時に、お母様から兄弟の中で一番仲の良かった2番目の兄の戦死を伝えられ、大変ショックを受けられたたことなど、どのお話しも軍人として山田議員が戦争をご自身が体験された貴重な内容でありました。
戦後の食糧不足が続いていた、昭和23年、山田議員が23歳の時に熱海大火を経験されています。
昭和26年7月には地域の農家より選ばれ、農業委員を以降20年間務められました。
昭和27年5月に韮山の久保田豊代議士の指導により政治活動に参加され、翌6月には、中国人浮慮殉難者慰霊実行委員会で戦時中中国より強制連行された中国人の県下遺骨調査に加わっています。
いつでも、誠実で優しく、数字に強く記憶力抜群で、私の知らない熱海市の話や戦時中からの貴重な話もたくさん頂きました。
平成15年2月に市民クラブの会派視察に神戸市と松山市に向かい、阪神淡路大震災の被害や状況について調査した時のこと、百年分の火災を経験し、水がなくて大変悔しい思いをされた説明を山田市議が隣で聞き入る様子を今でもはっきり覚えています。視察などの現地調査も欠かさず記録を残し、熱海市発展のために活用を心がけ、多くの様々な提言等を続けて参りました
95歳の人生で、47年余りを熱海市議会議員として職責を果たし、市政発展のためにご尽力賜りました。現場主義、市民のお手本をモットーとされ、日頃は行政書士として市民のくらしの相談や実務を果たされていました。あくなき探究心と好奇心を持ち続け95年の人生を全うされた山田治雄議員のご冥福を心からお祈り申しあげまして追悼のことばと致します。」