湯前神社春季例大祭が開催され、2月9日湯前神社宵宮祭、10日湯汲み神事、献湯祭が執り行われました。
10日湯汲み神事では、大湯間歇泉での湯汲み神事が行われの後、神社境内において献湯祭が執り行われました。
温泉に感謝しつつ汲湯を神社にお供えし、泉脈の絶えないことと源泉所有者の方の繁栄、並びに市民の健康長寿と熱海温泉の発展を祈願します。
湧き出る温泉をそそぎ雨宮禰宜さんや巫女さんが先導して、熱海市議会議長、奉賛会の皆さん、芸妓衆の皆さん、関係者の皆さんと共に湯前神社へ向かい神前にて神事が行われました。
私は、献湯祭にてご挨拶の機会をいただきました。神事を執り行ってくださいました雨宮盛克宮司の祝詞の中に「とつくに」という言葉が出てきます。これは、「外つ国」と書いて「とつくに」と読むそうですが、意味は外国、異国のことです。
つまり温泉によって我がまち熱海は、多くの外国人にも知っていただき、今では海外から多くの外国人が温泉地熱海に訪れてくださっています。
多くの外国人にも愛されるこの温泉をいつまでも守り、国内外への更なる周知に努めなければなりません。
『熱海温泉の起源は、今からおよそ1250年前の天平宝字(755~765年)頃、箱根権現の万巻上人が、海中に湧く熱湯によって魚類が焼け死に、甚大な被害を被っていた漁民たちを助けようと志し、祈願によって泉脈を海中から山里へ移したことと伝承されています。このことは山東庵京山の書いた「熱海温泉由 来」(1830年)にも記述があります。
熱海温泉を愛した著名人で、最も熱海の発展に寄与した一人が徳川幕府初代将軍・徳川家康公です。慶長9(1604年)年3月、家康公は義直、頼宣の2人の子供を連れて、7日間熱海に逗留(東照公記等)し、同年9月、京都で病気療養中の吉川広家(周防・現在の山口県)の見舞いとして熱海のお湯を運ばせまし た。当時、すでに全国レベルの名湯と知られ、より京都に近い「有馬の湯」ではなく、「熱海の湯」を運ばせたところに、家康公がいかに熱海温泉を気に入ったかが窺い知れます。
この元祖“温泉宅配便”は後に「御汲湯(おくみゆ)」として歴代徳川将軍に継承され、4代将軍家綱公の時(1667年)、大湯の温泉を真新しい檜の湯樽に汲み、それを頑強な男数人に担がせ江戸城まで運ばせるようになりました。ちなみに同じく「御汲湯」の歴史がある群馬県・草津温泉は8代将軍吉宗になって からです。
現在でも約90℃と非常に高温の大湯ですが、江戸城に着く頃、湯樽の温泉はちょうどいい湯加減を保っていたそうですから、担ぎ手の健脚ぶりは驚きです。記録では昼夜兼行で15時間、その風景から「熱海よいとこ日の丸たてて 御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれました。その後、湯樽は船で運ばれるようになり、8代将軍吉宗公の時が最も盛んで、享保11年から19年までには3640樽送ったと伝えられています。
また、家康公が熱海を幕府の直轄領としたことで土地の治安・風紀が守られ、各地の大名、明治以降も時の要人、軍人、文化人などが頻繁に熱海に訪れ、しばしば歴史的会談なども行われるようになりました。その伝統は平成13年の日韓首脳会議開催などに受け継がれています。』
※熱海温泉旅館組合公式サイト(熱海温泉の歴史より)