視察初日は、福島県南会津群下郷町に伺い国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「大内宿」を視察いたしました。
大内宿は、江戸時代の宿駅制度の中で作られた街道宿場としての形態を色濃く残す街並みとして、昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区として指定を受けました。
町並みの特徴として、旧街道の両側に均等に割られた屋敷割りと中程に炎症防止対策として設けられた火除け地、茅屋根寄せ造りで妻を街道側に面させる主屋、街道側に二座敷を併置する旧宿駅住居などがあります。
現在の大内宿が形成されたのは、五街道を始め脇街道の宿駅制度が進められるようになってからと考えられています。また、重要文化財に指定されている観音堂もお参りしましたが、重要文化財に指定していることは後で知りました。
画像は、観音堂の横付近から撮影したものです。
下郷町教育委員会の方の説明では、昔のからの話で、朝会津のお城を出て、この大内でお昼を食べたそうです。昔の方は健脚だったということでした。
慶応四年(1868)の戊辰戦争で三度の戦いにも戦火を免れ、明治17年の会津三方道路開設により幹線道路からはづれたため、その後の開発を免れ、こうした価値ある町並みを残した最大の要因は、火災を出さなかったことにあったということです。
大内宿では、以前から相互扶助の精神により、区民が一体となって防火に取り組んできたということです。
茅葺のこの村にも、近代化の波が押し寄せる一幕があった。
それは大川ダムの建設工事で、大内には、揚水式ダムの上池として大内ダムが建設されることになり、これに区民に、土地の補償や就労の場を得ることになり、当時の日本は経済成長期の真っ只中にあり、茅葺の屋根にトタンをかぶせる家が出たり、立て替えたりする家も出てきた。
保存の運動もあったが、それが一時ストップした時もあった。昭和55年に国の指導などもあり、保存の動きが活発化し、昭和56年に重要伝統的建造物群保存地区として指定を受けました。
文化庁から本陣を再建する様に指導を受けたが、戊辰戦争で資料等が残ってなかったため、同じ下野街道沿いにある栃木よりの田島という町の本陣が残っていたので、そこの図面と屋敷割を参考に昭和59年に造られた。
文化財整備の概要では保存会を中心に、国県の指導のもと修理修景を実施し、これまでに茅屋根葺き替えなど主屋の修理を中心に、本陣の復元、電柱の移設、街道のアスファルト舗装の撤去など実施しており、電柱の移設では、当時まだ、電柱の地中化は、まだ実用化には多くは至ってなかったようで、東西の裏側に移設されたということでした。
また、街道の中央に一本だった水路も発掘調査時の明治以降に二本となったということでした。今まで約11億円の設備投資等を行っているというこでしたが、雇用の面から見てみると約200人強あるということ、観光客入れ込み推移は、昭和59年ゼロだったものが、昭和60年から増え始め平成21年のピークで約116万人の数値を記録している。これは、高速道路の土・日曜の一律千円の実証実験時の効果であったということでした。昨年は被災の影響で半減したということですが、今年は昨年よりも多くの方が来場しているとのことでした。
また、火災から守るために放水銃を二軒に一軒の割合で28基整備しているということでした。いつまでもこの素晴らしい大内宿を大切に守りながら、さらなる誘客に有効施策を進めていただきたいと思います。
説明に対して委員から、「保存に対しての条例等はどうなっているのか?」という質問に、「町独自で保存条例をつくり、その上で選定される。全国に98地区あるが各自治体で条例制定している。保存計画というものがあり、それに基づき進めている。
それにしても、この雰囲気のなかで名物ネギそばをいただきました。とても美味しかった。
ご丁寧に対応していただきました下郷町教育委員会、議会事務局の皆様、また、大内宿の皆様ありがとうございました。