8月29から30日にかけて、福島第一原子力発電所及び川内村を視察して参りました。
これは、静岡県議会に設置された「原発・総合エネルギー対策議員連盟」での視察です。
ここ数日報道されている高濃度汚染水問題が浮上し、視察が実施されるか心配でしたが、視察内容を一部変更して実施されました。「原発・総合エネルギー対策議員連盟」は平成24年12月28日に設立、現在、議員定数69名中、67名が加入しています。
8月29日、各議員と職員は最寄り駅から東京駅に集合、東京駅9時40分発のやまびこ55号で郡山駅に10時57分予定通りに着きました。郡山駅からの県内移動は貸切バスでの移動となりました。
今回の参加者は民主党・ふじのくに県議団9名、自民改革会議13名、公明党5名で随行は危機管理部原子力安全対策課の小澤主査、議会事務局政策調査課の石井主査と鶴田主査で計30名の視察の一行となりました。
まずはじめに、福島第一原発視察の前に伺いました川内町についてご報告いたします。
川内町は福島県双葉郡の中西部に位置し、東は富岡町・楢葉町、西は田村市都路町・双葉郡大熊町に接している。
世帯数は約1,100世帯で人口3,000人の兼業農家を主体とした農村集落で就労者のほとんどが、村外の原子力発電所関連企業に従事する割合が極めて高い状況。山林資源が豊富な村です。
福島県内に入り川内村に向かうバスの中からの景色では大変緑豊かでのどかな風景なかに汚染土が入った黒い袋(フレコンバッグ)がいくつも家の前や畑の際に山積みされ、今でも除染作業が継続されている様子が窺えました。
川内村役場に到着し、早速、震災後の状況をお聞しました。
猪狩副村長さんに「川内村から今静岡県には5人ほど避難させていただいていて、まず心から御礼申し上げたいと思います。昨年掛川市の方に命の森づくり植樹祭の関係で伺いました。昨年の1月に遠藤村長が帰村宣言を致しました。これもマスメディアを通して避難している全国の村民に発信しなくてはならないということで、「戻れる人から戻りましょう」ちょっと様子を見てから後でもいいですよという発信をさせていただきました。4月に村の役場機能や小中学校、保育園を再開しました。今3000人の人口が現在は2800人になっている。
その中で戻ってきた村民は46%。逆に考えて50%以上はまだ避難中だということです。ここから第一原発まで24キロです。原発再稼働不安定や汚染水の問題もありレベル1からレベル3に引き上げたということで、そういう不安もありなかなか戻れない状況もあります。あとは便利さの問題の判断。生活環境が整っていない状況。商店の開店の見通しもまだ。
高校の問題もある海岸線に4つあったが、それもまだです。ひとりでも多くの方に戻ってきてもらいたいと思い様々な施策に取り組んでいる状況。ひとつ解決すると一つまた問題が生きる状況ですが一つひとつ解決している。震災前の川内に戻すというような考えではなくて、これを契機に新たな村づくりに取り組みはじめています。今年の3月に第4次総合計画を策定し、今まで10カ年計画でしたが、5カ年にし、スピード感のある行政施策で復興して新しい村へ努力しているところです。皆様にも暑いご支援とご協力をお願いします。」と歓迎のご挨拶をいただきました。
続いて復興対策課の井出課長さんに当時の様子等体験談も含めてご説明をいただきました。
昭和40年代に原発の話盛り上がった。電源地帯。平成の大合併では話は出なかった。
昨年の今頃でこの地域は1マイクロあるかないか。本当に線量低くて良かった。福島県195万人の人口あるが、いまだに今年の4月の数字で15万4千人が避難している状況。県外避難者5万5千人、県内は350人いる。
川内村3.11は、震度6を観測、この辺はこれまで地震は頻繁にあったが、そんなに地震の被害というものはなく、あっても震度4くらいだった。川内村は元々地震には強いと言われて、地下は火口岩で覆われている。今回地震によって路が崩落とかそういう被害は一箇所もないです。地震の時、議会で23年度予算26億くらいの予算を可決して、終わったとたん、横揺れ、すぐやむだろうと思っていたら、その後縦揺れし、今回の地震は強烈でした。みんな議場の机に下にもぐって机の足を押さえていた。それでもやっぱり動いていた。これは凄いと感じた。そのあと予定していた懇親会は急遽中止とし、この地域は地震に強い地域だということは分かっていた。
溜池が山の頂上に12か所ほどある。すぐに職員を走らせて溜池が異常あるかどうかを点検したが異常はなかった。翌日土曜日なので男子職員が集まって被害確認しようということでその日は解散した。たまたま当時総務課長をしていて上に相談したら、普通は職員泊まらせないが、この日は2人泊まらせた。
次の日の朝、泊まった職員から電話があり、今から富岡町にある双葉警察署が本部機能を川内村に設けたいよと。これがどういう状況なのか全然わからなかった。金曜日の夜だったのですが、テレビも見る暇なく電源喪失という状況がこの時までわからなかった。6時20分くらいに出勤したら双葉警察署が表で待っていた。どこに本部機能を置けるかということで、議会の議場の隣に議員控室があるが、ここで本部機能をやってくれということになった。
それから10分くらいしたら富岡町の遠藤町長が、村に電話よこして、「富岡町は川内村に避難しようと思うのですが」どうですかというんですね。「え?町長何かあったんですか」というと第一原発と第二原発で富岡町全域が避難区域にはいったというんですね。私もこれは即答するしかないんで「どうぞ来てください」といって、すぐに村長に電話したら、すぐ全職員を集めろと指示が出た。3月12日の8時30分くらいに先導隊が、当時は総務課長とか、町長副町長はこの時きていなかった。「これからお世話になります」原発避難はいったので当初は2日くらい置かせてくれということだった。
川内村は避難したことも避難民を受け入れたこともなかった。着の身着のままここにきていた。村も対応しきれないほどになって、消防団員に交通誘導頼んだ。小中学校の体育館開を放して、これだけあれば十分だと思ったが。ところが道があふれた。最終的に8000人です。富岡町15000人です。河内と富岡縁故関係もある。民間を含めると4~5000人は来たんだなと。13000人くらいはここにいたんです。
3月12日3時36分に建屋爆発した。あの情報まで、全て富岡町が避難しても川内村のここにいても原発どうなってるかとか、そういう情報は一切なかった。たまたま第一原発の1号機爆発したのが3時36分ですが、4時くらいに実は福島第二原発の副所長が、こちらに来られて初めて富岡町長と河内村長で、うちの村長室で私たちも入り話を聞きました。「今爆発したのは水素がたまって建屋が爆発したのであって原子炉ではないよ。ただ核の容器は右肩上がりなのでこれからベントします」ということだった。「ベント」という言葉は私たちはわかりません。1号機の建屋が爆発した時は富岡町はもう帰れないとみんな思っていた。果たして24キロのここにいること自体がどうなんだろうと。うちの若い職員が途中で本当に挫折した。ここにいる人は本当にみんな死を覚悟したくらい怖かったです。格納容器爆発するとこういうキノコ雲になってここに来るのかと。死を覚悟した。
富岡町長が原子力保安院に電話して安全を確かめた。20キロ以上離れていれば大丈夫だよと。極めつけは3月15日、20キロか30キロが当時屋内退避。うちらは電気テレビはOKでした。食糧が実際間に合わなくて婦人会の皆さんが100人くらいでお米を集めて、ご飯を炊いておにぎり作ってた。この日は富岡町民は1食でした。
合同対策本部を立てて会議をして、20キロ以上だが避難をしようということになって、当時福島県からは会津地方に避難しなさいということだったんですが、これだけの人と車で会津まではいけないので、ビックパレットの駐車場ならさばき切れるんじゃないかということで決めて、朝防災行政無線でみんなに知らせて、この当時は車と燃料のある人はみんな勝手に避難した。まぁなかなか燃料も入りづらかったんですが。勝手に避難して、最終的には3月16日は富岡町民で5000人くらいでしょうか。うちの村民で半分で1500人。富岡町が埼玉県の杉戸町と姉妹提携結んでそこから大型バスが8台来てくれた。2往復3往復して。これは大きかった。午後8時には避難完了した。2、3年は避難の時は戻ってこれないなと思った。
モニタリング2ヵ所おいた。放射線量測る機械。この見方もわからなかった。解読も誰もわからなかった。富岡町の職員もわからなかった。こことユフネというところにあった。
0.8シーベルトの単位がどういう意味があるのかわからなかった。誰も。富岡町長の側近が原発で働いていたということで、これだったらまだ大丈夫じゃないのとういうところで、屋外退避になってどんどん線量があがるのわかった。涙が止まらないほど悔しかった。どうして避難しなければならないのか。
ビックパレッド3月16日に避難した時、4号線と49号線が交わるところで、我々が言った時は郡山市民が200人ぐらいいた。16日は3500人くらいいた。みんな娘さんや息子さんの首都圏など等に避難し最終的には2300人。福島県としては東運動公園が1900人でしたから集団避難所としては最大だった。
練馬の陸上自衛隊が風呂の支援がありがたかった。原発の事故の影響はやっぱり放射能の影響か大きく、あと失業者が増えたことも、生活圏の喪失、何度も言うように富岡町大熊町が避難している状況で、やはり親が戻っていない状況で、家族の崩壊です。元々うちは1100世帯くらいだったが、今1450世帯くらいで、おじいさんおばあさんは戻っていますが若夫婦子どもは戻っていない。そこが今も大きいです。20キロから30キロ緊急避難準備区域解除されましたけれどもこちらだってまだ戻ってないです。東電の賠償は今年の3月で全て終わりました。これから大変ですよね。
10月に住民懇談会やって来月に戻ってくださいとやったが住民の反発大きかった。どうして村長戻れるんだと。1号機4号機どうなってんだ。わかるかということで、じゃぁ村長は戻れる人から戻りましょうということで24年の1月に帰村宣言をした。メディアを使って避難してる人に知らせるためにした。小中学校も一緒に再開できたことが大きかった。じょじょにですが小さい子どもも戻ってきている。
復興対策課をつくろうということで、3年でやれと。3年以上は復興ではないということなので。戻って何をやっつたかというと除染です。放射性物質もわからなくて一昨年の9月には除染係を設けたり、何らかのアクションを起こさないと我々も居ても立ってもいられない状況だった。学校や子どものいる所だけでも除染しようというとこで。
一世帯除染やるのに、大体450万位かかる。これ皆さんの税金です。本当にもったいないと思います。フレコンバックに詰めて仮置き場も設けた。フレコンバックこれ1トン入ります。5年間の耐用のフレコンバックです。今後中間貯蔵施設にもって行く間ということで住民のコンセンサスにも苦労した。
民間の除染去年終わって、今年農地をやってる。村の草地が仮置き場。3段がさねで。除染の課題も色々ある。0.23に下がらないのどうするかとか、里山除染どうするのとか。現在モニタリングポストは0.101かなり下がった。それから雇用が問題、40年間役場にいるが企業を誘致したくても企業が来ません。ですが、去年1年間で三つの企業が来ていただきました。経済産業省が企業補助金で募集した。まだまだ増やしていきたい。
天皇皇后両陛下も来ました。理由は二つです。村民を励まそうと。それから除染の状況を見たいと。民間除染を視察された。村民に温かい言葉を掛けられて非常に感動しました。
去年川内村で地下水サミットもやった。意義あるサミットだった。アパートやビジネスホテル、本来ならば人口が多ければ体力戻って民間がやってくれるが、未だ民間がやれる力が戻っていない。すべて行政主導でたちあげたという状況です。1年間避難して去年4月に戻って、課題ははっきりしてきた。除染は生活空間、今年度で終わりです。今生活道路の除染やっている。除染は大体ほぼ終わりかと。これからは工場のインフラを整備しよう。そうしながら定住を図っていこう。
最終的には人口3千人から5千人にしようというのが川内村の復興の考え方です。村長以下我々が新たな村づくりを進めていく、そのために、野菜です。本来稲作と一緒に震災前はいんげん豆をやっていたが、もうできないので、人口工型完全密封型の野菜工場を立ち上げた。うちの予算は年間30億です。この野菜工場6億です。6億の事業で村はプロジェクト組んで費用対効果から効率から色々計算して2年から3年くらいかけるところなんですが、1年で野菜工場立ち上げました。民間財団から3億の支援いただいて復興交付金2億円使い、更に村の一般財源1億使って立ち上げました。特別養護論陣施設もやってくれる法人が出て決まった。来月はJAさんと葬祭センターも立ち上げることになった。
25年主な事業では、防災センターもありますが、除染のウエートはいまだに大きいです。大学との連携も大きい。福島大、東大には昨年から支援いただいてますし、長崎大学は今年から支援を受けています。広島長崎は原爆の被災地で、放射能に対しての研究所があって、こういうところから復興のモデルにしたいという学長さんの思いもあって、村民の健康被害の健康教育を行って支援をいただいている。
村も昨年1年間で一般財源9億円の基金を使ってしまった。これからも帰村が先ではないなとインフラが先だと。
新たに観光協会が立ちあがった。103億5千万かけて被災した露天風呂をリニューアルする。結婚すると20万円あげます。子ども生むと補助金もある。こういう政策を掲げ人口を増やしていこうと思う。川内村はこういう新しい街づくりを進めていくことがいいことかと思います。
以上が説明要旨です。
今回の川内村視察で、当時の様子といいますか厳しい状況がご説明いただきよくわかりました。
まだまだ厳しい道のりでしょうが、私たち静岡県民も川内村の1日も早い復興(新しいまちづくり)を祈念するとともに、町民の皆様の幸福をお祈りいたします。
※一部中略してあります。ご了承ください。