11月23日(祝金)来宮神社にて新穀感謝祭・新嘗祭が執り行われました。
新穀感謝祭・新嘗祭とは、天皇が新穀を天神地祇(ちぎ)に供え、みずからもそれを食される祭儀です。古くは陰暦11月の中の卯(う)の日、昭和23年(1948)からは「勤労感謝の日」となり、国民の祝日となっているということです。(来宮神社ホームページより)
野菜産物即売会や、しし鍋無料配膳などが催されます。
【来宮弁財天】
開運出世 弁財天のいわれ
安永三年八月(約二百年前)江戸に住いして大久保将監という徳川家武臣は自分の立身出世の為、奥州の金華山にもあらたかな弁財天が鎮座されていると聞き、はるばるこの弁財天をめざして供侍一人を連れて江戸を立出でました。千里の道を遠しとせず、漸く金華山に着き江戸からはるばる奥州路を下って祈願に来た由を当社の別当に告げるや別当は大いに将監殿熱意にほだされ神を拝する種々の修法を授けられました。
それより将監殿は二十一日間の水をとり熱心に祈願をこめられ最後の満願の日になると滝壺から宝殊の石が現れました。その霊体には「軍を破る七つの星」の姿がけんじされていたので別当の言われるまま七ヶ年の間日夜信心これ怠りなく務めたところ宝殊の玉威徳があらわれ諸願が成就し遂には官位豊前の守にまで出世されました。(原文には奇なる哉、妙なる哉と記してあります。)
其の後、天明四年四月(約二百年前)滝川殿という武臣は信心常に怠りなく務めたので之又大願成就して不思議にも老中の職にまでも出世されたと古記には記されてあります。
その後、寛政八年九月(約二百年前)先の大久保豊前守は斯様な霊験あらたかな御神体を俗家に安置しておいては恐れ多いというので、秩父霊場(今の秩父神社)へお預けして祀られてあったが文政七年九月(約百六十年前、今の八月)に熱海本陣「今井半太夫」の所に東武秩父山八十一翁万国僧庵という人が滞在された時、以上のような話をされたので幕末に於ける世の中は騒然とさわがしく飢饉が続き、また疫病が慢延したのでこれらを鎮める為「熱海郷の役人村民一同が熱海郷の霊場来宮神社の地を卜して安置し永代の鎮守として仰ぎ奉る」と記されてあります。
以後、明治、大正、昭和と時代を経るに当たり遠近よりこの霊験を聞き伝えて祈願に来られる方々が後を絶ちません。
願い事 芸能上達、立身出世、営業繁昌、身体強健など、その他祈願多し
【高村光雲 経歴】
江戸下谷(現・台東区)に町人兼吉の子として生まれる。文久3年(1863年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。後に師匠東雲の姉エツの養子となり、高村姓となる。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。
明治23年(1890年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に任ぜられる。明治26年(1893年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。その後『山霊訶護』をパリ万博に出品。大正15年(1926年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。自伝『木彫七十年』が2000年に<人間の記録124> 日本図書センターで、回顧談『幕末維新懐古談』が1995年に岩波文庫で再刊。孫で写真家の高村規撮影『木彫高村光雲』が、中教出版で1999年に刊行。
光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海など近代日本彫刻を代表する彫刻家がいた。
この日は、御鳳輦の引き継ぎ式も執り行われました。